July 08, 2009

ロマンスカーざんまい

最近は会社の帰りに疲れると青いロマンスカーに乗ります。というか今も乗っているんですが、座れてまあまあ早いのでだいぶ楽。今週は二回も乗ってしまうとはだいぶ疲れているのかな。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 06, 2009

プロがいない!

JW時代も家の人たちを思って伝道している人なんてホントウのところいなかったような気がします。でも、相手にはいつも「多くの人々を救う」だの何だのを動機にしているって言ってた人がたくさんいましたね。家の人の目の前では相手をいかにも思っているように語りながら、家を出ると豹変してクソ味噌に言う兄弟とかね。今日それと似たようなことが会社でも。いや会社だからこそなおさら悪くて(とまた仕事の話題で申し訳ない)。

仕事をしながら、ふと電話のやり取りが耳に入ったので思わず目が点に。

「私どもは読者との接点を最大限求めるようにしています」

えっ!“読者との接点を最小限にしている”の間違いじゃないの。そう答えていた編集部は取材はしない、読者と接点を持たない、読者に関心がない、ただ義務感で作らされているって感じの人たちでしたから(それでもできてしまうのが不思議?)。もちろん毎回の電話対応も(丁寧ですが)慇懃無礼さがにじみ出てくるひどい有様で。読者の立場にまるで立っていない。いや読者に何一つ共感を感じていないんですね。自分の与えられた仕事と与えてくれた上しか見えない。それで読者は一種の仕事を邪魔する雑音、そして読者を黙らせるために、こういった調子の良い嘘を言う。お金をいただいているのはお客さんだというのに。

でもこういった嘘って一番始末が悪い。一つに読者というかお客さんとかユーザーとかでも良い(すべてのビジネスに通じる)、それに対して不誠実。そしてそれを小手先でごまかして直しようがない。もちろんこの人たちは直す気なんてさらさらないんだけれど。

読者と自分から接触しようなんてしているの見たこともないし。もっと読者の業界を勉強しないといけないよって言ったら「ちゃんと校正のときに読んでそれが私の勉強の仕方ですぅ」って答えるくらい(これは二重に間違いで校正時には内容を意識してはいけないし、仮に内容もチェックしても校正程度では理解できない)。まあ自分たちのやることを最低限にしようって固い決意で編集されている方々ですから。それは読者にあまりに失礼。それなのにああいったことを平気で言える神経に正直同業者として、もちろん編集者として頭にくるわけなんですね。自分が読者だったらすごく嫌な気分になりますね。

ただそういった人たちは妙に誇り高くて、何か自分はプロでこちらと同列に扱われないことを不満に思っているようで、その割りに何もまともなことはしない、アドバイスしてもすべて無駄。行ったことはただの一度もない。そのくせ学びたいとか見習いたいとか。そういった嘘は勘弁してほしい。嘘つきはビジネスでは一番駄目なんですよ。信頼が成立しない。信頼できない人とビジネスはできない。イエスはイエス、ノーはノー。それを行わない人間をどう信頼すべきか理解できない。

プロの基本はお客さんに誠実にですよ、信頼されること。パーフェクトとまで言いませんが、少なくとも自分が全くしていないことを偉そうに言うべきじゃない。それができないなら、編集者をやめるべきだと思うんですね。厳しいことを言うようですが。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

June 27, 2009

マイケルの死

自分はミュージシャンとしてのマイケルのファンではないし、彼の生き方や行動の多くは理解できるとはとても思いませんが、その死には正直ショックを受けています。彼もJWの二世でしたし、父親からの精神的な虐待のすさまじさも知っていましたから。ラトーヤ・ジャクソンの「インサイド・ジャクソンファミリー」という本があって、そこでかなり詳細に出ています。あの「バッド」もラトーヤから言わせれば父親と宗教(JW)への復讐だと語っていたといいます。繊細すぎる神経に、父親もJWもそしてエンターテイメントビジネスの世界も過酷過ぎる気がするのです。ジャクソン・ファイブのそして「オフ・ザ・ウォール」のあのあどけない顔から見ると切ない気がしてならない。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

June 15, 2009

Woman is the slave of the slaves!

カミさんと仕事のことを話していたところ
「ヒロは男だからわからないけれど、女ってだけでまともに取り合ってくれなくて悔しい思いをすることなんてしょっちゅうだからね」
ということを言われました。
「ホント男って軟弱だから、女に頼ってばかりなのに・・・」
かく言う自分の周りも何時代の遺物だか知らないけれど、女性差別主義者だらけ。女性まで含め、じゃない人間を探すのが難しすぎる。例えば自分の一世代上の定見もない連中はまともに仕事を回さない、いつもハスにしたりしてそのことでやる気をそいでいる事すらぜんぜん気がつかない。だからしょっちゅう抗議するんですよ。お前ら間違っているって。
だけど女性の中にはそれで良いって人もいて、そういった行動は余計なことにもなるんでね。本当に難しい。でもやる気があって能力がある人は男女に関わらずそれ相応の扱いを受けるべきだし、それがない人は男女に関わらずその適正に合わせる事をすべきでね。またスタート地点は同じであるべきだし、妊娠などの男女差は双方が責任を持つべき。それこそ社会の中でもっとも重要な作業の一つをやってるわけだから。それで差別する意味がわからない。使えもしない(のにやたらと地位や権威が集中する)男が今の問題の元凶の大多数だってのにね。無能な男性が男性というだけで尊ばれ、そのオトコのろくでもない意見がありがたがれ、有能な女性が一顧だにされない、しょせんオンナって現状は正直むかつきますね。
JW時代と同じ。頓珍漢で間抜けな長老と姉妹たちの意見が食い違う場合九割九分姉妹たちのほうが現場にいるだけ実情がわかっていて正しい。だが現場にもいず何もわかっていないテフロウやその地元にいるわけでもない塵芥監督のわけのわからぬ命令のほうが優先され、それを神権的な指示系統として文句を言うことも許されず、違和感を感じながらも従う姉妹たちを見ていつも変だと思っていたのですが、それが一般社会でも繰り返されるとは。
ジョン・レノンの歌みたいで女性は世界のクロンボ(差別用語:原題ではthe nigger )か!って。いや差別用語を使うって事は差別意識をお前らは持っているだろって事ですね。
でも結局、女性差別をしなけりゃならない男ってのはそれだけ自由でない、自分も奴隷なのだということでジョン・レノンの歌詞にあるとおりで。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 12, 2009

大阪ストラット

昨日今日と大阪に出張していました、今日戻ってきて会社よって帰り道に突然カミサンから電話が。
「今どこにいるの」
「会社の帰り、大阪から戻ってきた」
「え?あ、カレンダーに書いてあった」
どうも昨日からいなかったのに気がつかなかったらしい。どうも影がとてつもなく薄いようで・・・

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 10, 2009

自己信頼の創造から築く良き均衡への道程

自己を信頼することは、先ほどの信頼の側面、自己についての情報を持ち、自己を感情的に認め、その将来への予測可能性を持つことでしょう。
われわれは条件的には他者よりも自己を信頼できる条件があります。それは情報の非対称がないからです。他者であれば情報の差異がどうしても生じます。自分自身の情報は、記憶の忘却などあるにはありますが、一応自分と自分を信頼する自分は同じ自分ですので、情報に差異があるとは思えません。知的な側面での信頼性はどちらかというと他者より高いはずです。
むしろ感情面や、自己の予測不能性、信頼基準、この辺が自己信頼を低める要因を多く持っているように思えます。

感情面で自己を信頼できないのは多分に他者評価や他者の中での位置づけなど外部との比較考量が多く絡んでいます。
日本の武士の諸倫理は他者の視線(世間)を過度に重要視するものであったと歴史家は見ています。その後明治期に入って武士道という名を冠せられ、リバイバルしたこの価値観の影響は現在でも大きいものです(学生の先輩後輩の関係など色濃い)。相対的に他者視点によって個人の信頼性を低める元凶ともなっています。
また失敗情報も成功情報より過敏に過剰に反応しやすい性格や環境もあるでしょう。恐怖感が強いとやはり自己に対する信頼が壊れやすい。
さらに自己の予測可能性が低い、他者からの影響が強かったり、自己決定する意思が弱い、また自己の理想と現実の行動の乖離、あるいは望んでいないあるいは社会的の望ましくない欲望への抑制が効かないなど、自己のコントロールが自分の意思によってできにくいと自信の喪失につながりやすい。
さらに基準もあります。上昇志向が強すぎるとその上昇についていけず自信を破壊してしまいます。逆に低すぎても問題で、できることしか結局しない、自分は所詮その程度という諦め感があるケースもあります。これは自己の信頼が育たないのです。
これは自信がない人の特徴で、絶対に成功することか、絶対に失敗することかどちらかに取り組むときに最もモチベーションが上がるという研究もあります。普通自信がある人は5割の時に最もモチベーションが上がるようです。自信がない人は過程そのものではなく結果至上主義で、絶対に大丈夫か挑戦しても失敗の言い訳ができるかどちらかの場合に基準を置きやすい傾向があるのです。そしてその基準から予想された失敗と予想された成功の中で固定化するため、ますます自己に対する信頼が弱くなりがちです。最初から予想できていないと信頼を保ちきれないほどもろくなってしまうのです。

さてこのような状況ではまってしまった個人をどうしたら良いかですが、一つは本人の意思がかなり重要です。それを当人が問題視するか、それとも自己の当然の権利であるとみなすかです。もちろんそれは両方正当な可能性はあるわけで、結局個人が選択するしかありません。権利とみなしている場合、良き均衡に持っていくには環境全体を変えることによって最終的に良き均衡への順応によって変わってくれることを祈ることくらいしかできません。個人的に何かをするのは大きなお世話、おせっかいになりかねない。これは良き均衡へのアプローチを続ける人が必ず経験する冷や水、良く見られる光景かもしれません。

しかし当人が問題意識を持っているなら、これは変わることは不可能ではありません。むしろ変われるなら、変わったほうがその当人にも社会にも良いわけです。それを表明するような人がいれば積極的にいっしょに考察することは重要でしょうし、自信を深める手助けをするのは効果がより高いでしょう。自分などはここに一定のチャンスがあるのと見ています。しかし、問題意識を持っているかどうかは非常にわかりにくいことでもあるのですが。

ですから悪しき均衡状態で個々を見る際、個々の環境に注意すると共にその環境への順応によって自信を失っている個人が、そのこと事態を問題視しているか、あるいはしていないかは、かなり重要視する点です。むしろ当然の権利として、あるいはそれが正常であり普通であると考えている場合(こういった場合言葉はあまり信用できません、たいてい努力するようなことを必ず言うからですが、そういったことはまれです、態度や行動から考えます)徒労に終わる可能性が高いように思えます、ただし人は変化しますからその時点ではという条件がつきます。環境も変わりますから、現時点ですべて諦めるより、その時点での最も効果の高い方策を個人として、また改善を希望する個人がいれば共に考えていきたいものです。

もし、自己の信頼を強めながら知性面の信頼構築への努力(つまり情報の透明化のための積極的なコミュニケーションなど)や責任への積極的なアプローチ、前向きで建設的な姿勢と健全な批判精神などがほんの一部にでも育っていくことは良きロールモデルを作ることになります。部分的な良き均衡の創造ができるかどうかが悪しき均衡状態での信頼均衡を目指す者の手段になります。各所の小さな成功とその連携がいろいろな事態を変えたのは歴史の示すところです。そこまで信じられるか、繰り返すことができるかが正念場となるでしょう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 08, 2009

自己に対する信頼を阻害する力

良き信頼の均衡状態の基礎には自己に対する深い信頼があると思います。これは自己顕示欲が強い、もしくは過信しているという事とは少し違います。自己に対する深い信頼は自己とその世界をよく理解しようとした結果からもたらされるものであるべきで、自己の欠乏を満たすためのものとは違います。

個人的にこのことの重要性は感じたことがあります。
JW時代の周囲環境、またその後十代の子供たちを教育することにより、さらに現職場での自己効力感の低下によってもたらされる個人と集団の不幸な均衡状態によって徐々にですが、そういうことの必要性について考えています。そしてその他の場所でも当てはめられる一つの条件のような気もします。

私が教えた子供たちは学力的に多くの問題を抱える子供たちでした。そして子供たちの多くが自己に対する信頼を何らかのか形で深く傷つけられていたのです。ですから自分は子供たちに教えるという仕事そのものが、自分の主な仕事という認識はありませんでした。自分がそこでしなければならなかったのは、自己信頼の回復を促すことであり、自信を育て、そのやっと復活し、ほうっておけばすぐにも折れそうな自信をなんとか保持させるための忍耐を繰り返すことでした。それは単に教えることより重要、いやむしろ本質的なものという気がします。
彼らの受けた教育は結果的には残酷なものでした。北欧の教育相がなぜ日本のような競争原理を教育にいれないのかと言われたときに「それはできる子が優秀だと勘違いして誇り高ぶってしまい、できない子が自尊心を失いやる気をそぐ、誰もが不幸になる方法だ」と言うようなことを語ったのを思い浮かべます。彼らの砕かれた自己信頼を立て直すのは本当に大変な作業で、最初からあきらめて何もしようともしないのを「やる気がない」と切り捨てることを拒否することを意味します。なかなか報われない、結果が即でないので、その子供たちにもいやがられる、そういった状況の中でずっと繰り返す(励まし叱咤しモチベーションにめいっぱい気を配る)、地道で忍耐のいる作業です。ヤンキー先生が教育は9つの絶望と1の希望でやっているというようなことを言っていましたが、まさにそう。実りが大きい仕事とはとても言えない。わずかな前進を梃子にして自身を徐々に育てる苦しい作業です。当然現実には多くの場合、こういった状況ゆえ、さっさと切り捨てられる、そして切り捨てられたものの諦めと、切り捨てられることへの恐怖から勉強するという他者への見せしめのような、本末転倒な愚かしいことさえ行われているのです。ある意味教育の自殺行為といえます。教育の本来の目的(優秀というレッテルを貼るための選別ではなく)、個々の社会化と発達への働きかけが大きく阻害されるのです。

職場での状況も自己信頼の毀損がみられます。私も話を聞いた多くの人が自信がないことを少し自慢っぽくはなすのを聞いて不思議に思ったことがあります。そこから伺えることは子供たちと同質なことです。本質的には同じ状況にはまっている、均衡状態に陥っているという印象が強かったです。しかも子供を相手にする教育者であればアプローチしますし、それを受け入れる素地はなくもないですが、同等の立場の大人同士の場合、自信のなさからくる、良くない均衡が全体として働いており、それは対立関係になりかねない一種の圧力にもなります。自信がないことが正常で正しく、何もしないことへの免罪符として堂々と機能し始めるのです。これは本人は気づいていないのですが、本人にとっても全体にとっても不幸なことです。本人は自分の能力を発揮し、そこから喜びを得られなくなるように自分を追い込み、全体として見れば不効率な状況を甘受せざるを得ないわけです。誰も得をしないのに、そこで均衡している、先ほどの北欧の教育相の言葉の状況と似ています。この状況をどのように打破すべきか、現在真剣に検討していますが、まず個人へのアプローチはおそらく圧力としか認識されないだろうという印象を持っています。そこで、はまった状態であって、自分からはもう抜け出すことさえできなくなっているように見えます。よかれと思って自信を持つための手助けにするようなことをすれば、それは自己への非難としか受け止められない結果になります。自己信頼の毀損でバランスしてしまった個人はその状態から脱するだけでも相当のエネルギーと(そのような人の声から言うと)恐怖感を感じるようです。

でもそもそも自己の信頼は何によって規定されるのでしょうか。
その個人差には大きくわけて二つが考えられます。まず遺伝的な要素があるでしょう。その遺伝的素地に環境という要素も絡んできます。同じ人間でも自信を得る環境と自信を失う環境があることから、環境は個人の自信にかなりの影響を与えると推察されます。

では自己の信頼を失墜させる環境とはどういったところでしょう。上記でも書かれていたように、個人を個人として見るより、集団中心の見方やヒエラルキーや序列や上からの評価を重要視する環境は自己の評価が不安定になりやすい傾向があります。日本社会は一種のヒエラルキー至上主義な社会であり、現在もその傾向が色濃いためこの種の問題は生じやすい背景を思っていることは十分認識しておく必要があるでしょう。

私が一つ上げるのは“優秀神話”の危険性です。優秀であるという言葉はそれ自身は、さほど意味があるわけではない曖昧な言葉です。たとえばここで、ある職場のなんとかさんの話をしています「すごく優秀なのよね」と関心をして言う台詞、実を言うとあまり意味がないのです。これはJWの「霊性が高い」と同じ無意味な言葉です。優秀という用語は要は優れていることを指しますが、“何が”という言葉が抜けており、それなしでは成立しない用語です。そしてそれありで話されると、機能的な側面を持った話になってしまい、その人の人間にはほとんど触れていないのです。あの新しくでた車って性能がいいね、それと同じです(安全性?トルク?スピード?燃費?)。この優秀という言葉が一人歩きすると非常に危険です。優秀な人は自信を持つべきだし、優秀な人でなければ自信を持つべきでないという環境になると大きな問題になるのです。ところがこういった環境にだれも疑問を持たないことが悪しき均衡のバックグラウンドになっている場合が往々にしてあります。当たり前ですが人間でパーフェクトな人間はいません。いわゆる優秀な人間と呼ばれる人はある機能が他より優れている、もしくは機能の転用が各所でしやすい程度です。それは組織やら社会に部分的に必要ですが、その人だけであるいはその人に偏重して社会も社会集団も成立するわけではありません。全体で行うと逆に非効率です。たとえば渋滞する道路にものすごいスピードで走るスーパーカーを何台も走らせたからといって渋滞が良くなるわけではありません。院生が研究者にもなれずかと言って社会経験不足で企業でも敬遠されるという問題が起きましたが、優秀な人材を増やすという優秀至上主義の成れの果てであり彼らにも全体から見てももったいない話です(これはいわゆるロスジェネ問題の変形だと個人的には思いますが)。人間を機能的に見て評価する方法もそれは一つの評価方法にしかすぎず(しかもかなり偏った)それだけで個人が信頼できるか、あるいは自己の信頼を失うべきかということに影響を与えることは無意味どころか有害とさえいえます。もちろん機能の発展や発達は個人の満足感を大いに刺激します。ある種の優秀さを目指して個々が努力し、到達し、あるいはしようとすることは当人にも周囲にもプラスになります。しかしその満足感と優秀という評価による自己充足(その逆の自信の喪失も含め)とを混同してはいけないのです。そもそも優秀という評価をする人の目的は自分が客観的な評価者として評価される位置から巧妙にすり抜けるためにやっている自己保身的な態度に由来することの方が多いのです。あるいは細かな観察力に基づく目的的な評価能力の欠如であるとか。本来評価する側は自分も人に評価されることを許す程度に成熟しなければなりません。そうすれば安易に優秀などというほめ言葉を使えなくなるでしょう。これが良き信頼の均衡にいたる自己信頼つまり他者の評価程度で自分の信頼が崩れない余裕なのです。その自己に対する批判が正当でも信頼は崩れません。なぜなら謙虚に向き合えば良いだけですから、それはその人をよりよくするためのきっかけにすぎない。しかし優秀神話にとらわれている人は、自己の批判は自分の優秀さを傷つける脅威になってしまうのです。

この優秀神話の背景にあるのが競争的世界観です。これは一種のフィクションです。もちろん競争がないわけではありません。でも限界があるし、それは一定の位置と範囲に節度を持ってあるべきですん。ゼロサムゲームの競争、優秀さの不毛な争いとそこからはじかれたと感じて陥る無力感の当人に与える破壊的ダメージはたいてい全員が負けになります。つまり勝った人も人々の関係を失い、さらに次に自分が負ける恐怖と戦わなければならなくなる、バランスし皆がハッピーになることによって得られるさらなるものを得られないのです。勝つというよりも消耗戦に生き残っただけにすぎません。負けた人についてはその感情的な損傷はいうまでもありません。それは社会にも当人にも損失にしかなりません。
社会全体を通してみた場合、人々は死ぬまで何らかの形でそこに存在するのです。それを無価値に感じるように仕向けるより、自信を持つような場所で均衡した方がはるかによい世界なのです。信頼があちこちに激しく動き回り、あるいは滞留し、誰もが悲惨な目に遭う可能性、爆弾を相手に投げるような、あるいは優秀さを奪い合うような環境で自己信頼も他者信頼も生じにくいものです。
そもそも優秀という機能的な側面で人を見ることは、人を見る際の見方がしごく即物的で単純で想像力も多様性もない見かたです、もちろんある機能が求められているときにはその機能面に限って重要ですが、それ以外では見かたをすべきでないし、その見かたを個人が自己信頼のベースに使うべきでもない。
それでは自己信頼とはいったい何なのでしょうか。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 04, 2009

信頼を成立させるもの

先回が、ある種の望ましくない状態は望ましくない均衡によって維持されている、そしてその均衡は個々の行動の失敗や過ちによってなされるというものではなく、むしろその個人に限っていえば正しい行動もしくは合理的な行動が原因かも知れないと言うことを述べました。そのために唐突でしたが「信頼の均衡」の構築の必要性についてちょろっと言いました。で、ここからが大事ですがなぜ「信頼」なのかということです。こいつが結構曲者なのでもそっとゆっくり考えたいと思います。
まず信頼とはそもそも何かということです。「あいつは信頼できる」、「あの子は信頼できない」、自己に対しても「自信がない」、「あの人は自信が溢れている」。ここで使われている信頼(自信は“自己の信頼”と定義します、とりあえず)は何を意味するかってのは意外とあんまり考えない。
信頼の意味は・・それは結局のところ信頼でしょってベースになる言葉としてそれ以上追及しなくなってしまいがちで。これをもうちょっと掘り下げると見えてくるものがありそうです。もちろんあまり哲学的ではなく実用的な感じで荒っぽく大雑把にですが。でもこれをしただけでも「信頼の均衡」という意味がわかりやすくなるので少々我慢してお付き合いを。
信頼は大雑把に言うと情報的なものと感情的なものに分けられるでしょう。さらにそれは時系列的な予想という意味も含まれています。つまり過去のデータから主観的に類推して将来は相手はこうであろうとする推測です。これは情報的な(あるいは知的なと言い換えても良い)もしくは感情的な信頼双方に含まれる要素です。

まず知的な、あるいは情報的な信頼には、
①信頼すべき情報の共有
②情報が共有できない場合、相手の情報に対する正確性の根拠
③過去の情報や言動の結果から類推される将来の結果
というものがあります。
ですから信頼を高める方法は情報の透明化と共有するための積極的なコミュニケーション、さらに相手の持っていない情報であろうと高い制度の情報提供の努力(誠実性)そして言動の一致などがあります。逆に信頼できない行動は情報の独占、不透明さ、ディスコミュニケーション、情報の二重性(人によって情報を変える)、言行の不一致、虚栄や見せ掛けの謙虚、尊大もしくは卑小な態度などがあります。

さらに感情的な要素では、比較的自己を守る防衛的な意味での信頼の要素、また自己承認欲求も大きく働きます。すなわち
①自己への安全・安心の要求を満たす
②自己の感情的なダメージを最小限にする
③自己の不利益を最小限にする
④自己の自尊心への配慮
⑤自分を正当(あるいは正しいとか合理的、あるいはきちんとやっているetc)と承認する
⑥共感できる、またされる相互性
この信頼では、相手の感情面への配慮や、相手の立場に立った言動や尊重する姿勢、相手への関心や理解などが大きな位置を占めます。

この知的な側面での信頼と感情的な信頼は必ずしも相容れるものではありません。知的に信頼を高める行為は逆に相手の感情的信頼を損なうこともあり、その逆もあります。
例えば受け入れにくい情報を共有する必要性がある場合、前者を優先すると感情にひびを入れることがあります。逆に後者を重要視するとその情報的な側面は信頼性を損ないます。

さてまた立ち戻って悪しき均衡な状態にある場合どういった現象が起きるか、上記のことを当てはめながら考えましょう。悪しき均衡状態では往々にして、後者(つまり感情的な信頼)がゆがんだ形で優先されます。しかも人間関係の力関係などまったく別の要素さえ入ってき、それが最優先されます。それはおそらく自己承認要求のゆがんだ形、もしくは信頼の形式的な要求という形になります。たとえば独裁体制では独裁者を知的な人は誰も信頼しないのに信頼するふりをする。あるいは偽りの仲良しクラブみたいなところではそれぞれが相手が独裁者であるかのように相手に偽りの信頼を示し、またそれを暗に要求します。それに応えない人間を排除したりします。
もちろんこれが難しいところです。完全な信頼はありえないのですが、すべて程度(もしくはバランス)の問題ですが、そのバランスが片方の要素を過大視することによって著しく悪くなった状態で均衡する。あるいは実質信頼していない。信頼が感情的なものとして表出し、それを相互で維持することにより均衡することは前者の知的な側面での信頼に大きな制限を設けます。ある場合情報の共有化やコミュニケーションは信頼への敵対行為となるのです。独裁国家が秘密主義に陥るのはそういった背景がありますし、風通しの悪い職場でうわさがはびこるのも(あるいはJWでもそうですが)メカニズムとしては個人がそういった噂話好き、あるいは悪い性格というだけではなく、偽りの信頼の均衡が形成されて情報のゆがみが生じているという解釈が近いかもしれない。信頼できる情報が少ないのですから、それを闇市のようにして自己保身やまたは不満の捌け口などに使うようになるのです。良いことではないですが、状況として理解できなくはないのです。ある意味合理的で正しい行為といえるかもしれない(倫理的に正しいという意味ではない)。

逆に信頼が成立する均衡はどうでしょう。これは意外ですが知的な信頼のほうが優先されるまたは優先できる環境といったほうが良いでしょう。すなわち、感情的には成熟している、知的には変化している(信頼は要求するものではなく、自己の信頼できるコミュニケーションや言動によって勝ち得るもの)。つまり、信頼は形式的なものではないわけです。逆に言動によっては信頼を失うこともありますし、信頼を高める行動が重要視されます。つまり信頼は中身であって形式ではないのです。基本的に疑わしきは信頼し、信頼できない要素が出た時点で信頼しなくなることが多いように思えます。

例えば上記の悪しき均衡状態の人は信頼を失った場合、行動を差し控えます。これ以上相手の感情にインパクトを与えず忘却に身を任せるわけです。その信頼が当人の感情面での安心・安全や自己承認欲求のためなら、これが合理的でしょう。しかし後者の(つまり知的側面重視の)信頼の均衡状態では信頼をますます失墜させます。つまり情報を共有化させるつもりがない、将来の言動の参考データがその失墜させたところで止まる、という事態になってしまうのです。時々見られる失敗の多くは信頼回復をするために言動を停止し、待つ姿勢を示すということですが、これは悪しき均衡に陥る人が犯してしまいがちなミスです。悪しき均衡状態では一定の意味を持ちますが、本当の意味で信頼回復できません(いわゆる有力者の手打ちで終わる)。この方法はますます信頼を悪い方向にするでしょう。

さらに逆に悪しき均衡状態でその均衡を良い方向に少なからず自分は保ちたいと思っている場合はどうでしょうか。これはかなりきつい話です。しかしいくつかヒントはあります。
①情報の管理
これはできるだけ正しい情報を得るようにし、いくつかの情報はあえて切ります。例えば噂話の類は聞いてもよそでは話さないようにします。これは噂話が悪いというわけではなく(JWの考えと違い善悪の評価にそぐわない)、良い均衡への一つの技術的な手段という風に考えたほうが良いでしょう。
②不都合な情報も可能な限り情報を見せる
相手にとっても自分にとっても不都合な情報があります。これは共有すべきと思えば何らかの手段で公開する姿勢を示します。これは皆の信頼に対する裏切り行為と受け取られるでしょうが、それを行うことです。
③最大限の言行の一致の努力と不可能な場合の明確な説明
すべてできるわけではありませんが可能な限りすべきですし、できなかった場合、あるいは変更した場合もきちんと説明する責務できる限り取ろうとするべきでしょう。
④人間の評価とシステムの評価を分ける(相対化する)
これは重要です。例えば長老や社長はシステムの役割の呼称に過ぎません。たえず区別し、その行為も組織の均衡状態でなされているものか個人的資質かあるいはその双方が相互に影響を及ぼしているかをよく観察します。
⑤仲間に対するフェアな態度
フェアといっても同じ態度というわけではありません、同じ評価基準でそしてより客観的な知的な信頼をフェアに扱うという意味です。信頼できない人を信頼するふりをすべきではないでしょうし、信頼すべき人を悪しき均衡を気にして裏切ることなどあってはならないわけです。
⑥自己の信頼を守る
最終的にはここにつきます。いくら人びとに信頼できるようにしても自己への信頼が毀損してしまっては無意味です。しかし自己の信頼は往々にして他者の自己に対する信頼と連動しがちです。このあたりが悪しき信頼の均衡状態でどうすべきか非常に問題となります。

自己の信頼は悪しき均衡状態の中で一種の鎧の役割を果たし、自分のやっていることへの疑問から自分を守ります。でもどうやって自己への信頼を育てるのでしょうか。

| | Comments (3) | TrackBack (0)

May 28, 2009

信頼の均衡を創造する

前回は社会集団がマイナスの均衡状態に陥る背景に個人の過ちではなく、むしろ個々にとっては正しい合理的な行動から来ているということをちょっと述べましたが、じゃあマイナスの均衡状態をプラスにできるのか、できるとすれば、どのような条件でどのようにすればということをビジネスとして考えるのが今仕事になっていますね。これは会社ではマネジメントでしょうし、地域社会では社会活動でしょう。国家では政治であり国際間であれば国際協力で非常に重要なことです。
一つは信頼関係の熟成による均衡を目指すことでしょう。
悪しき均衡条件というのもあります。例えば北朝鮮のような独裁体制では信頼の偏った部分への強要によって長期に渡って均衡しています。全体主義の社会ではこの種の均衡になりやすい。逆のものもあります。信頼が成立しない環境では混沌とした状態で均衡することがあります。無政府状態のソマリアなどそうかもしれない。
プラスの均衡になるには個々が自由を意識でき全体としては信頼関係を持っている必要があるわけです。ですから正直さが単なる個人的な道徳ではなく、それ以上の役割を担うのです。自由でない社会では正直さは形式的なものになりがちで、不正直こそ合理的な正しい行動になります。全体主義的な場所や無政府状態の混沌では人は自らに対してさえ不正直になりかねないもので、それ自体当人にもその社会集団にも社会にも損失になります。でもその状態に均衡して社会も本人もそれを変えるモチベーションを持たなくなります。
ちょうど自分の目の前でその小さなモデルケースが繰り広げられているわけで、その対応を模索せざるを得なくなっています。自分はビジネスとして信頼できない相手とパートナーを絶対組まない主義ですし、プロ以外とも同様ですが本当にその基準をどんどん下げざるを得ない事態に陥り、個人の資質より環境面をより分解して考えるわけです。そしてそこには信頼の均衡の創造が鍵を握るとみています。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

May 26, 2009

マイナスの均衡状態

最近同僚が立て続けに三人も辞めることになって。そのうちの一人と理由を話してたんだけど、「結局真っ当な仕事がしたかったんだよね。だけどそんな当たり前のことすらできない・」
まあそういう希望を持つ者にはあまり良い環境とは言えなくなっているんですね。むしろ何もしようともしない無責任な方々が幅を利かせる環境に固定化されつつある。
もちろん個々の人たちが無能でも悪い意図を持っているわけではないみたいです。まあそう断言出来かねることもありますが。
現在の無責任で学生のような気分の人たち、定年間近だったり三十代からのいい年をした責任を感じるべき年齢ではあるのですが。ある意味その状態では合理的な行動なんですね。それで全体として均衡しているため益々全体として同様の傾向が助長される。
これに対して真っ当なことをしようとするのは均衡を崩す異物、不合理なんです。だから状況はなかなか変えられない。
これに対してより全体を見通した合理性もあるはずでマイナスの均衡状態をプラスの均衡に持っていく視点も必要なのかなという気がします。彼らの合理性は近視眼的な合理性で長期的また普遍性は極めて弱いものですから。その均衡をどのようにずらしていくのか、それはコミュニケーションの力のような気がします。
これも一筋縄ではいかないもので、普通の真っ当な方法が通じないところがあります。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

«Beautiful World